プチメタ3.0

刺激を受けた物事に対する感想や考察、資産運用や英語学習、自己成長に関することなど。


あの頃、ゲームといえばこんなだった<1991年~1994年>


目次

対戦格闘ゲームの大流行


家庭用ゲーム機としてスーパーファミコンが広まる中、
ゲームセンターでは対戦格闘ゲームのブームが起きていた。


その火付け役が「ストリートファイター2」、いわゆるスト2であり、
複数の方向にレバーを入れてボタンを押すと必殺技が出るという
コマンド入力の文化を広めた。


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通常、ゲームのうまい人ほど100円で長時間プレイするため、
上級者ばかりが集まるとゲームセンターの売り上げが落ちるが、
対戦型のゲームなら客同士でつぶし合ってくれるため
どんどん新しい金が投入されることになる。


ゲームセンターは格闘ゲームをどんどん入荷し、
メーカー側もスト2にならって新たな作品を生み出した。




特に目立ったのはSNKで、「餓狼伝説」、「龍虎の拳」、
「サムライスピリッツ」、「ザ・キング・オブ・ファイターズ」など
キャラクターの立った個性的なゲームが多かった。
(コスプレファンにはSNK作品の方が人気だった)
また、必殺技のコマンドはどんどん複雑になっていった。




そんなSNKのゲームがそのまま家で遊べるということを売りにした
NEOGEO (ネオジオ)」というゲーム機も発売されたが、
ゲーム1本が3万円という無茶苦茶な値段だったので、
たいていの人はゲームセンターに通った。


スト2シリーズも「ストリートファイターⅡ’(ダッシュ)」、
「ストリートファイターⅡ’ TURBO(ダッシュターボ)」、
「スーパーストリートファイターⅡ」、
「スーパーストリートファイターⅡX」などとマイナーチェンジを繰り返し、
プレイヤーたちの技術もどんどん進化する中で
波に乗り遅れた人たちはついていけなくなった。




そんな中、セガから「バーチャファイター」がリリースされた。
私が高校生となった1993年のことである。


バーチャファイターは強烈だった。
あちこちで見る対戦格闘ゲームとは違い、
まさにモニターの中に本物の人間がいると思った。
痛々しい打撃技や重さを感じる投げ技など
3Dグラフィックの迫力とインパクトを感じた。


また、複雑なコマンド入力と
6つのボタンを駆使する他の格闘ゲームと違い、
パンチ・キック・ガードの3つのボタンを
1方向に倒したレバーと組み合わせるだけで技が出たため、
誰でも純粋に駆け引きを楽しむことができた。


バーチャファイターは新たなプレイヤーを引き込み、
あちこちで話題になった。


各地で強さを誇ったプレイヤーたちは
新宿ジャッキーやブンブン丸、池袋サラというような
独自のニックネームをぶら下げて有名になっていった。
今でいうプロゲーマーに近いものがあった。

3Dゲーム時代の幕開け

バーチャファイターの登場によって、
3Dグラフィックが持つパワーと可能性を感じた。
これからは3Dゲームの時代になる。そう感じた。


私はその頃、ファミコンに続いて
スーパーファミコンも手に入れていた。




そこで出会ったのが「スターフォックス 」である。


スーパーファミコンは画像の回転・拡大・縮小機能を備えていたが、
3Dグラフィックの処理には不十分だった。
そこでゲームカセット内部に
「スーパーFXチップ」という特殊な演算ユニットを追加し、
見事な3Dゲームを実現していた(名作だった)。


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スーパーFXチップを積んだカセットは
端子部分の両端に他のソフトにはない回路があったので
外から見ても区別がついた。未来を感じた。

第2次ゲーム機戦国時代


高校2年生の終わりに近づいた1994年、
メガドライブで有名だったセガが
新しいゲーム機「セガサターン」を発表した。


これが44800円というめちゃくちゃに高い値段だったが、
なんと「バーチャファイター」が同時発売されるというのだ。
あの斬新な格闘ゲームが家で遊べる。
これはなんとしても買わなくては、と強く思った。




同じ頃、ソニーが「プレイステーション」というゲーム機を発表した。
セガサターン同様、3Dグラフィックをウリにしており、
「次世代機」という言葉が世間に広まっていった。


しかし、当時のソニーといえば
ウォークマンをはじめとする音楽家電のメーカーであり、
なぜ唐突にゲーム機を出すのか意味がわからなかった。


2本の足が生えた不格好なコントローラーや
○・△・×のような間抜けなデザインのボタンにゲームファンは失笑した。

バーチャファイターへの道


figma バーチャファイター 結城晶 ノンスケール ABS&PVC製 塗装済み可動フィギュア


学校ではサターンとプレステのどちらを買うかが話題になったが、
バーチャファイターに魅せられた私は当然、サターンだった。


とはいえセガサターンは44800円である。
加えてゲームソフトの代金も必要だ。
高校生はもちろん、大人でも簡単に払える金額ではない。


私は持っていたゲームを売れるだけ売り、貯金を全部下ろしたが、
それでもまだ足りなかった。
小遣いは月4000円だったが、
ゲーム嫌いの母親に増額や前借りなど不可能だ。


思いつく方法はひとつしかなかった。おばあちゃんだ。
幼い頃にゲーム&ウォッチを買ってくれた頼りになる存在。




私は通学用の自転車にまたがり、
約25km先に住む祖母に会いに行った。
電車賃を払うのすら惜しかったからだ。


休憩も含めておおよそ2時間。
距離よりも途中の山越えがキツかった。


小遣いが欲しいと素直に頼むと祖母は1万円をくれた。
正直、もう少しもらえるかと期待していたが、
ありがたいことに違いはない。
再び2時間かけて山を越え、家に帰った。

セガサターン三昧の日々

1994年11月22日、火曜日。
学校帰りに5万円という大金を握りしめて
通学路にあるゲームショップに立ち寄った。


震える手でセガサターンとバーチャファイターを買い、
ゆっくり慎重に家まで帰った。ドキドキした。
(当時はネット通販などなかった)



サターン コントロールパッド


家に着いた私は早速セガサターンをテレビに接続した。


メガCDもCD-ROM2も持っていなかった私にとっては
初めて手にするディスク形式のゲーム機だったが、
カートリッジ型と違ってディスクには新たな情報が書き込めないため、
セーブデータがサターン本体に記録される仕様が新鮮だった。


また、ゲームディスクだけでなく音楽CDを入れれば
そのまま再生できるという点にも驚かさせ、
プレイヤー持っているにも関わらず
無駄にセガサターンで音楽を聞いたりした。


その2ヶ月後に阪神・淡路大震災が起こったが、
幸いにも大きな被害がなく、同級生の家が断水したり
学校がしばらく休みになったりしたぐらいだった。
苦労して買ったセガサターンも無事だった。


当時、セガサターンを持っている人は割と限られたため、
友達の家に本体ごと持って行って
バーチャファイターに加えて「電脳戦機バーチャロン」や
「セガラリーチャンピオンシップ」を何度もプレイしたことを覚えている。


その後もセガサターンに心酔し、
良作・駄作含めてかなりの本数をこなした。
「MYST」や「パンツァードラグーン」「NiGHTS」、
「Dの食卓」「エネミー・ゼロ 」「街」など
体験しておいてよかったと思う印象的なゲームも多い。




中でも「ガングリフォン」のオープニングは
めちゃくちゃにカッコよく、飽きもせず何回も眺めた。
ゲーム本編もかなり面白くて、お気に入りのゲームのひとつだった。


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