プチメタ3.0

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問題を過剰に排除することが成長の機会を奪ってしまう

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何かにつけてしょうもないことを
「差別だ」と問題視しているのをよく見かけるようになったが、
その問題視している人こそ、
ここからここまでが差別という枠を広げる原因になってる気がする。
一般の人は差別だとも意識しなかったことまで
差別の枠に入るかのように騒ぎ立てているように思う。

ひねくれた見方で見ればなんでも差別しているように見ることはできるし、
ひねくれた見方でも差別に見えない物事ばかりにするのは不可能だ。
それよりも、ひねくれて見ることを改めるべきだろう。
「これはもしかして差別なんじゃないか」と
何事にも否定的な感情から入るのは被害妄想というものだ。

「危険そうだから排除」「悪影響を与えそうだから排除」
「差別に受け取れるかもだから排除」「下品だから排除」
弱者や自分の子供を無菌室に入れて育てたいのかもしれないが
自由を奪うことで新しい発想や改革の可能性まで排除されてしまう。

危険そうなものを危険かどうか見分ける力、
悪影響を受けそうなものに耐えうる理性、差別をしない道徳心、
立場を守る社会性と品の良さを身に付ければ済むことであり、
それを排除して存在しないようにするのはどうにもおかしい。

世の中の悪いものに触れたことがない子供でも
成長すればどのみち世の中に出て行かなければならない。
そのときに自分で判断する力と辛い思いに耐える力があれば
危険は自分で回避していける。
守ってくれる人がいなくなったときに自分で生きていける力こそ、
守られている間に身に付けるべき要素なのだ。

弱者に対する愛情とは、その人が進む道から
一切の石ころを取り除き、アスファルトを敷き、
消毒しながら前を歩くことではない。
転んでも自分で立ち上がり、自分で傷を治し、
怪我をしないよう受け身を取れる技を身に付けさせることだ。

テレビ番組や情報媒体から
悪影響だと判断されたものをすべてなくせば安全なのだろうか。
それはある意味で非常に危険な気がする。

個人によって好き嫌いがあるのは当然だが、
自分が嫌いなものを他人からも取り上げるのはおかしい。
秩序は必要だが、それは規制や抑圧とは異なるものだ。

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