プチメタ3.0

刺激を受けた物事に対する感想や考察、資産運用や英語学習、自己成長に関することなど。


あの頃、ゲームといえばこんなだった<1995年~1997年>

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目次

ゲーム業界への道を歩み始める

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高校3年生となり、進路指導がたびたび行われるようになった。


通っていた高校は割と厳しい学校だったので
担任の先生からは大学への進学を何度も勧められたが、
私はゲームプログラミングが学べる専門学校を選んだ。
小学3年生のときの誓いを果たすためだ。


専門学校には入試らしい入試もなく、
願書を書くだけでほぼ入学が決まった。
周囲の友達は大学受験のための勉強を続けていたが、
私も含めて早めに進路の決まった生徒にはアルバイトが許可された。



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卒業までそれほど間がない時期だったので
年賀状で忙しくなる郵便局の短期アルバイトをすることにした。


その地域の郵便物の仕分けと配達をするのだが、
自分の家宛てのものも分類するため、
友達からの年賀状が年内に見れてしまうのは少し残念だった。

プレイステーションを購入

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てっきり没落していくと思っていたプレイステーションだが、
「リッジレーサー」「鉄拳」「エースコンバット」など
その後にシリーズ化されるような人気作が生まれたこともあり、
予想外に世の中に定着しつつあった。


セガサターン派だった私も見過ごすことができなくなり、
郵便局のアルバイトで得た数万円の収入で買うことに決めた。
プレステは発売当時から1万円値下げされ、29800円だった。


サターン派とプレステ派に分かれていた頃に
2台とも持っている私は「かなりのゲーム好き」という見方をされたが、
機種を問わずに話題になったゲームを
どんどんプレイできるようになったのは大きかった。


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進化するコントローラー

ファミコンやスーファミと違い、
サターンにもプレステにもコントローラーは1個しか付いておらず、
複数人で遊ぶ場合には新たに購入する必要がある。


サターンのコントローラーは
前面にA・B・C・X・Y・Zの6つのボタン、
上側にL・Rの2つのボタンが付いていたが、
プレステの場合は前面に○・×・△・□の4つしかボタンがなく、
代わりに上側にL1・L2・R1・R2と4つもボタンがあった。



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プレステ発売から2年ほど経ったときに
2本のアナログスティックと振動機能を追加した「アナログコントローラー」、
さらにそれをマイナーチェンジした
「DUALSHOCK(デュアルショック)」が発売された。


これにより、左右2本のアナログスティック、
左側に十字ボタン、右側に4つのボタン、
上側には左右2つずつ計4つのボタンという
ゲームコントローラーの基本スタイルが確立し、
その後20年以上も継承されている。


当初、アナログスティックはただのレバーに見えたが、
あるゲームをプレイ中に「R3」「L3」ボタンを押すよう指示され、
実は左右のスティックが押し込めることに気づいて驚いた。


アナログスティックは主人公の移動や視点の移動など
どのゲームでも多用される上に強い力がかかるため、
次第に削れてきたりニュートラルの判定が甘くなったりする。
このアナログスティックの登場によって
コントローラーは消耗品になってしまった。


初期のコントローラーは1500円程度だったが、
DUALSHOCKは3000円ほどになり、
のちのPS3用のDUALSHOCK 3は約5000円、
PS4用のDUALSHOCK 4は約6000円、
PS5用のDualSenseは約7000円と、
世代が進むたびに急激な値上がりを見せている。

ゲームプログラミングの世界へ

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私は専門学校に入り、ゲームプログラミングを学び始めた。


ずっと望んでいた世界ということもあって
毎日の勉強がめちゃくちゃ面白かった。
高校時代は社会や古語などの嫌い科目も勉強しないといけなかったが、
専門学校は自分の興味のある教科しかなくて天国に思えた。


学校のくせにこんなに楽しくていいのかと思ったほどで、
その勢いのまま学年1位の成績が取れたこともあった。
強く大学進学を勧めた高校当時の先生に
「やっぱりこの道で正しかったです」と言いに行きたくなった。


ちなみに高校では特異な存在だった「プレステ・サターン2台持ち」だが、
専門学校にはウジャウジャいたので何も珍しくなかった。
逆に、高校時代にあれだけいた「女子」が激減し、
身近な女性が実は貴重な存在だったことを痛感した。


当時使っていたノートパソコンは
ハードディスクが310MBしかないWindows95マシンだったが、
新しいことを学ぶたびに実験プログラムを作っていったので
卒業するまでの2年間で200個ほどになった。
また、その頃から著作表示に「D.IKUSHIMA」という名前を使うようになり、
安易に名前を変えずにブランド化していこうと考えた。


「ゲームは遊ぶより作る方が面白いのでは?」と思い始めるようになり、
高校時代と比べてゲームで遊ぶ時間が少なくなったが、
話題になったものを知っておくのも勉強のひとつなので
意識していろいろなゲームに手を出すようにした。




基本的にはプログラマーを目指していたので
グラフィックや3Dモデルは専門外だったが、
友人がムービーを作れる無料ソフトを教えてくれたので
「ガングリフォン」のオープニングに興奮した気持ちを思い出して
つたない3DCGの動画を作ったこともあった。



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毎日が充実しすぎてあっという間に過ぎていったが、
手探り状態の就職活動の結果、なんとかゲーム会社への入社が決まった。
10年間抱えていた念願の夢が叶った瞬間である。

さまざまなゲーム機の乱立

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1990年半ばはプレステやサターン以外にも
多数のゲーム機が各メーカーから発売された。


Panasonicからは「3DO REAL」、NECからは「PC-FX」、
バンダイからは「プレイディア」、その後継機の「ピピンアットマーク」。
これらは一瞬だけ話題になって市場から消えていった。



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一番のイロモノといえば任天堂が出した「バーチャルボーイ」だろう。


自立するゴーグル型の本体を両目で覗くスタイルになっており、
左右で角度の違う映像を見ることで立体視を実現するが、
濃淡の異なる赤色しか表示できない。


一度だけ実際にプレイした経験があるが、
立体と言いつつも平面の板が前後に並んでいるような印象で、
いわゆる3Dゲームとはまったく違う見せ方だった。
赤1色の画面も長時間プレイするには厳しすぎた。


ファミコン、スーファミ、ゲームボーイと
ゲーム機の主流を生み出してきた任天堂が
大失敗したという評価を受け、歴史から消された。



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しかし、同時期に発売された「NINTENDO64」は一定の人気を集めた。


プレステやサターンのようなゲームディスクではなく
スーファミ同様のカートリッジタイプを採用し、
「スーパーマリオ64」「ゴールデンアイ 007」「どうぶつの森」、
「ゼルダの伝説 時のオカリナ」「大乱闘スマッシュブラザーズ」など
ゲーム史に残る名作を発売していった。


しかし、プレステやサターンから1年半も遅れて発売されたことや
ソフトのラインアップが少なかったこと、
ファイナルファンタジーやドラゴンクエストの新作が
プレステで発売されたことなどが原因でシェアがあまり伸びず、
ゲーム機としては3番目というやや影の薄い存在だった。


私もNINTENDO64をプレイする経験がほとんどなく、
専用タイトルとして発売されたゲームは詳しくないままだ。


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あの頃、ゲームといえばこんなだった<1991年~1994年>


目次

対戦格闘ゲームの大流行


家庭用ゲーム機としてスーパーファミコンが広まる中、
ゲームセンターでは対戦格闘ゲームのブームが起きていた。


その火付け役が「ストリートファイター2」、いわゆるスト2であり、
複数の方向にレバーを入れてボタンを押すと必殺技が出るという
コマンド入力の文化を広めた。


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通常、ゲームのうまい人ほど100円で長時間プレイするため、
上級者ばかりが集まるとゲームセンターの売り上げが落ちるが、
対戦型のゲームなら客同士でつぶし合ってくれるため
どんどん新しい金が投入されることになる。


ゲームセンターは格闘ゲームをどんどん入荷し、
メーカー側もスト2にならって新たな作品を生み出した。




特に目立ったのはSNKで、「餓狼伝説」、「龍虎の拳」、
「サムライスピリッツ」、「ザ・キング・オブ・ファイターズ」など
キャラクターの立った個性的なゲームが多かった。
(コスプレファンにはSNK作品の方が人気だった)
また、必殺技のコマンドはどんどん複雑になっていった。




そんなSNKのゲームがそのまま家で遊べるということを売りにした
NEOGEO (ネオジオ)」というゲーム機も発売されたが、
ゲーム1本が3万円という無茶苦茶な値段だったので、
たいていの人はゲームセンターに通った。


スト2シリーズも「ストリートファイターⅡ’(ダッシュ)」、
「ストリートファイターⅡ’ TURBO(ダッシュターボ)」、
「スーパーストリートファイターⅡ」、
「スーパーストリートファイターⅡX」などとマイナーチェンジを繰り返し、
プレイヤーたちの技術もどんどん進化する中で
波に乗り遅れた人たちはついていけなくなった。




そんな中、セガから「バーチャファイター」がリリースされた。
私が高校生となった1993年のことである。


バーチャファイターは強烈だった。
あちこちで見る対戦格闘ゲームとは違い、
まさにモニターの中に本物の人間がいると思った。
痛々しい打撃技や重さを感じる投げ技など
3Dグラフィックの迫力とインパクトを感じた。


また、複雑なコマンド入力と
6つのボタンを駆使する他の格闘ゲームと違い、
パンチ・キック・ガードの3つのボタンを
1方向に倒したレバーと組み合わせるだけで技が出たため、
誰でも純粋に駆け引きを楽しむことができた。


バーチャファイターは新たなプレイヤーを引き込み、
あちこちで話題になった。


各地で強さを誇ったプレイヤーたちは
新宿ジャッキーやブンブン丸、池袋サラというような
独自のニックネームをぶら下げて有名になっていった。
今でいうプロゲーマーに近いものがあった。

3Dゲーム時代の幕開け

バーチャファイターの登場によって、
3Dグラフィックが持つパワーと可能性を感じた。
これからは3Dゲームの時代になる。そう感じた。


私はその頃、ファミコンに続いて
スーパーファミコンも手に入れていた。




そこで出会ったのが「スターフォックス 」である。


スーパーファミコンは画像の回転・拡大・縮小機能を備えていたが、
3Dグラフィックの処理には不十分だった。
そこでゲームカセット内部に
「スーパーFXチップ」という特殊な演算ユニットを追加し、
見事な3Dゲームを実現していた(名作だった)。


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スーパーFXチップを積んだカセットは
端子部分の両端に他のソフトにはない回路があったので
外から見ても区別がついた。未来を感じた。

第2次ゲーム機戦国時代


高校2年生の終わりに近づいた1994年、
メガドライブで有名だったセガが
新しいゲーム機「セガサターン」を発表した。


これが44800円というめちゃくちゃに高い値段だったが、
なんと「バーチャファイター」が同時発売されるというのだ。
あの斬新な格闘ゲームが家で遊べる。
これはなんとしても買わなくては、と強く思った。




同じ頃、ソニーが「プレイステーション」というゲーム機を発表した。
セガサターン同様、3Dグラフィックをウリにしており、
「次世代機」という言葉が世間に広まっていった。


しかし、当時のソニーといえば
ウォークマンをはじめとする音楽家電のメーカーであり、
なぜ唐突にゲーム機を出すのか意味がわからなかった。


2本の足が生えた不格好なコントローラーや
○・△・×のような間抜けなデザインのボタンにゲームファンは失笑した。

バーチャファイターへの道


figma バーチャファイター 結城晶 ノンスケール ABS&PVC製 塗装済み可動フィギュア


学校ではサターンとプレステのどちらを買うかが話題になったが、
バーチャファイターに魅せられた私は当然、サターンだった。


とはいえセガサターンは44800円である。
加えてゲームソフトの代金も必要だ。
高校生はもちろん、大人でも簡単に払える金額ではない。


私は持っていたゲームを売れるだけ売り、貯金を全部下ろしたが、
それでもまだ足りなかった。
小遣いは月4000円だったが、
ゲーム嫌いの母親に増額や前借りなど不可能だ。


思いつく方法はひとつしかなかった。おばあちゃんだ。
幼い頃にゲーム&ウォッチを買ってくれた頼りになる存在。




私は通学用の自転車にまたがり、
約25km先に住む祖母に会いに行った。
電車賃を払うのすら惜しかったからだ。


休憩も含めておおよそ2時間。
距離よりも途中の山越えがキツかった。


小遣いが欲しいと素直に頼むと祖母は1万円をくれた。
正直、もう少しもらえるかと期待していたが、
ありがたいことに違いはない。
再び2時間かけて山を越え、家に帰った。

セガサターン三昧の日々

1994年11月22日、火曜日。
学校帰りに5万円という大金を握りしめて
通学路にあるゲームショップに立ち寄った。


震える手でセガサターンとバーチャファイターを買い、
ゆっくり慎重に家まで帰った。ドキドキした。
(当時はネット通販などなかった)



サターン コントロールパッド


家に着いた私は早速セガサターンをテレビに接続した。


メガCDもCD-ROM2も持っていなかった私にとっては
初めて手にするディスク形式のゲーム機だったが、
カートリッジ型と違ってディスクには新たな情報が書き込めないため、
セーブデータがサターン本体に記録される仕様が新鮮だった。


また、ゲームディスクだけでなく音楽CDを入れれば
そのまま再生できるという点にも驚かさせ、
プレイヤー持っているにも関わらず
無駄にセガサターンで音楽を聞いたりした。


その2ヶ月後に阪神・淡路大震災が起こったが、
幸いにも大きな被害がなく、同級生の家が断水したり
学校がしばらく休みになったりしたぐらいだった。
苦労して買ったセガサターンも無事だった。


当時、セガサターンを持っている人は割と限られたため、
友達の家に本体ごと持って行って
バーチャファイターに加えて「電脳戦機バーチャロン」や
「セガラリーチャンピオンシップ」を何度もプレイしたことを覚えている。


その後もセガサターンに心酔し、
良作・駄作含めてかなりの本数をこなした。
「MYST」や「パンツァードラグーン」「NiGHTS」、
「Dの食卓」「エネミー・ゼロ 」「街」など
体験しておいてよかったと思う印象的なゲームも多い。




中でも「ガングリフォン」のオープニングは
めちゃくちゃにカッコよく、飽きもせず何回も眺めた。
ゲーム本編もかなり面白くて、お気に入りのゲームのひとつだった。


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あの頃、ゲームといえばこんなだった<1988年~1990年>


目次

ファミコン全盛期



バッテリーバックアップが普及したことでセーブ機能が当たり前になり、
ファミコンのゲームは一度きりのプレイではなく、
日数をかけてクリアするボリュームに進化していった。


ファミコンが人気すぎて出せば売れる状態だったためか、
1980年代後半はゲームがどんどん発売された。
その分、クソゲーもかなりの割合で混ざっており、
今思えば「アタリショック」になりかけていたように思う。


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また、統一規格がなかったのか、
他のゲームと比べてやけにデカいカセットもあった。
中でも「信長の野望」はデカい上にやたら高く、
一般のファミコンソフトが4~5千円なのに1万円近くもした。

イメージの悪かったゲームセンター

今でこそゲームセンターはプリクラやクレーンゲームであふれているが、
1980年代当時はまさにゲームをプレイするための場所で、
ファミコンよりも遥かに高い性能で
派手なグラフィックが楽しめる機械がそろっていた。




初期のゲームセンターに置かれていたのは
天板がガラスになったテーブルの中にモニターを埋め込んだ筐体か、
ベニヤ板のようなもので囲まれたボックスの中の
モニターを覗き込みながら立ってプレイするものだった。


いずれにしても画面に照明が映り込むと見づらくなるので
ゲームセンター全体がかなり暗くなっており、
背中を丸めてプレイする陰湿なイメージが強かった。
素行の悪い客も多かったため、「不良のたまり場」と呼ばれていた。


運転席に乗り込んでプレイするレースゲームなど
いわゆる体感ゲームと呼ばれた大型筐体もあったが、
それらはあくまでアミューズメント施設に設置されていて
上記のようなものとは明らかにユーザー層が違っていた。




1990年代に入るとモニターを斜め向きに設置して
背筋を伸ばしてプレイできるような筐体が出回るようになった。
画面も明るくなり、店の雰囲気もかなり改善された。


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第1次ゲーム機戦国時代

ファミコンが広まる中で
他のメーカーからもゲーム機が発売されていった。




1988年にはセガから「メガドライブ」が発売された。
セガはゲームセンター用にかなりのゲームを生み出していたが、
それらが移植されたものが遊べるやや大人向けのハードという印象だった。




のちに「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」が発売されると、
画面のスクロールが追いつかないダッシュや
ジェットコースターのようなループなど
スーパーマリオとはまったく違う独特なスピード感で一気に評判となり、
キャラクターとしても広く定着することになった。


その後、ゲーム機としての寿命を延ばすために
メガCD」や「スーパー32X 」といった
周辺機器を増築してどんどん巨大化していったが、
その都度、万単位の出費に踏み切れたのは真のセガファンだけである。




「PC-88(ハチハチ)」や「PC-98(キューハチ)」といった
パソコンゲームの主流マシンを手掛けていたNECからは
PCエンジン」が発売されていた。


PCエンジンはカードリッジではなく
「Hu(ヒュー)カード」という薄い板にゲームが入っている造りだったが、
のちに「CD-ROM2(シーディーロムロム)」という周辺機器が出たことで
ソフトの形態がHuカードからCD-ROMに移行し、大容量化していった。


その恩恵としてキャラクターのボイスが収録できるようになり、
ゲームから流れてくる肉声を友達の家で聞かせてもらって衝撃を受けた。


ただ、PCエンジンは主流からは少し外れた印象で、
ファミコン、メガドライブ、PCエンジンの順に人気があった。


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当時はマルチプラットフォームという文化がなく、
各ゲームを遊ぶにはそれに見合ったハードが必要だったので
機種の選択はその後の満足度に大きな影響があった。


しかし、この時代の母親は全部を「ファミコン」と呼び、
「ロックマン」も「グラディウス」も「ツインビー」もすべて
「ピコピコ」というサウンドに聞こえていた。

ゲームボーイ登場


私が小学6年生になった1989年、
任天堂から「ゲームボーイ」が発売された。


単3電池4本で稼働するモノクロ液晶のゲーム機で、
「スーパーマリオランド」や「テトリス」のおかげで一気に普及し、
「携帯ゲーム機」という新しいカテゴリが生まれた瞬間だった。


ファミコンと違ってテレビがなくてもプレイできるということで
家の外で集まったときにも
みんなでゲームを遊ぶことができるようになった。
ただ、当時の液晶は質が低い上にバックライトがなかったので
周囲が暗かったり見る角度が悪いと画面がほとんど見えなかった。


また、電池残量はただの赤いランプでしか表現されておらず、
赤い光が弱くなってきたら画面表示も徐々に薄くなっていくので
電池がゼロになるまでに急いでセーブする必要があった。


とはいえ、ゲーム嫌いの私の母が買ってくれるわけもなく、
本体12500円+ゲーム代という金額は
とても自分に出せる金額ではなかった。


そんなとき、同じクラスの友達が
ゲームボーイ本体ごと貸してくれるという出来事が起きた。
私にとって手が届かない存在だったゲームを
まさかフルセットで貸してくれる人がいるとは思わなかった。




そのときに含まれていたゲームが「魔界塔士Sa・Ga」である。
今振り返ってもかなりの名作だが、
私にとって生まれて初めてプレイするRPGとなり、非常に感慨深い。


ゲームでは画面の上方向が北だということを学んだり、
「玄武・青龍・白虎・朱雀」という四神の存在を知ったのは
この作品のおかげと言える。
(反面、経験値を使わない成長システムは独特すぎて混乱した)


4人パーティを作るときに自分以外の名前が思いつかなくて
クラスで好きだった女子の名前にしていたが、
そのまま友達に返したためにあとでニヤニヤされた。
返す前にセーブデータを消すという発想がなかった。

スーパーファミコン登場


私が中学生になった1990年、
任天堂から「スーパーファミコン」が25000円で発売された。


ほとんどの家庭にファミコンがあった時代なので
新しいファミコンの登場に大騒ぎになり、
早速買ったという友達の家にみんなで集まった。


A・Bボタンしかなかったファミコンに比べて
X・Yというボタンが追加されたのは知っていたが、
さらにL・Rボタンというのまであると聞いて驚いた。
人差し指をコントローラーの上側に乗せる持ち方に慣れなかった。




そこでプレイしたのが「F-ZERO(エフゼロ)」だ。


地面から浮遊し、400km/hを上回る速度で
近未来の世界を走り回る姿がめちゃくちゃにカッコよく、
まさに「新しい時代のゲーム」というのを肌で感じた。


単に全方向分のグラフィックを用意したり
画像をゆがめて表示しているだけで正式な3D処理ではないのだが、
非常に立体感を感じる雰囲気があった。
表示の粗いブラウン管テレビに合わせて調整されていたのだろうが、
実際に見た当時のグラフィックは上記の何倍も美しかった。


F3、F2、F1と、数字が小さくなるほどに速度域が上がる
現実のフォーミュラカーレースになぞらえて
そのひとつ上の「F0」と名付けるセンスにも感心した。


ちなみにスーパーファミコンのセーブの仕組みも
ファミコンと同じバッテリーバックアップだったが、
今回は「リセットボタンを押さずに電源を切る」という操作に変わり、
説明書にもわざわざリセットボタンを押さないよう注意書きがあった。

自分だけのゲーム環境を獲得


スーパーファミコンが登場したことでゲーム機の世代交代が起きたため、
なんと友達が中古のファミコンを1000円で売ってくれることになった。
これが生まれて初めて手に入れた自分のゲーム機となる。


母親は相変わらずゲーム嫌いだったが、
私が中学生になったこともあり、
自力で調達する分には文句を言わなかった。


さらにたまたま父親が小さめのテレビを入手する機会があり、
私の部屋に譲ってくれたために
自室でゲームをプレイできる環境が整った。


ここから私のゲーム人生が本格的に始まり、
失われた数年間を取り戻すべく
いくつものゲームに手を伸ばしていく。




また、同時期に「ドラゴンクエストへの道」という本を読み、
ゲーム開発をしていく苦労と面白さを見聞きしたことで
「将来、ゲーム業界へ進みたい」という気持ちをより固めることになる。


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あの頃、ゲームといえばこんなだった<1986年~1988年>


目次

ディスクシステム登場

ファミコンは子供がいるほとんどの家庭にあるほど人気だったが、
より多くのゲームをプレイできる画期的なシステムが登場した。



ファミリーコンピュータ ディスクシステム


それがファミコンの「 ディスクシステム」である。


黄色いケースの磁気ディスクにゲームが記録されており、
その内容を読み取ってファミコンに送り込むことで
カセットがなくてもゲームが遊べる仕組みだ。


しかもゲームショップやおもちゃ屋の
店頭にあるディスクライターを使えば
1本500円で新しいゲームに書き換えられるのだ。
つまり新作ゲームが非常に安く手に入る。


ただ、ディスクシステムだけで15000円と
ファミコン本体とほぼ同じ価格だったため、
身近で持っている人はほとんどいなかった。


ちなみに「スーパーマリオブラザーズ2」は
このディスクシステム専用ソフトとして発売された上に
やたら意地悪な難易度だったので知名度が低い。


SHARP ツインファミコン 本体 AN-500B


また、ファミコン本体とディスクシステムを併せ持った
ツインファミコン」という商品がシャープから発売されたが、
3万円を超える価格だったので
「ゲームは子供のおもちゃ」というイメージが強かった当時、
買ってもらえるような子供はほとんどいなかったと思う。
私も実際に見たのは1度だけだ。

裏技の浸透

ファミコン時代はプログラミング技術や
デバッグ手法が成長過程だったこともあり、
ゲームの中にいろいろな不具合が含まれたまま発売された。
現代のようにネットを通じてアップデートすることもできないので
発売時のバグはそのまま世の中に出回った。


その結果、バグを利用して
本来は進めないところにキャラクターを移動させたり
得点や経験値などの数値を簡単に上げたり
なかなか死なないような状況を作り出すことができた。


こういったテクニックは「裏技(または「ウルテク」)」と呼ばれるが、
中には開発者がテストプレイするために用意された隠しコマンドもあり、
「上上下下左右左右BA」というボタン操作の記憶は
今でも大勢の脳の容量を無駄に消費している。


インターネットがなかった時代なので
こういった特殊な情報は誰かが買ったゲーム雑誌をもとに
口コミで広がっていったのだが、
中には本物の裏技の中にデマを混ぜるという企画もあったため、
いくら試しても出せない裏技に混乱させられたこともあった。

連射の流行

当時のシューティングゲームは
ボタンを押しても弾が1発しか発射されず、
ゲームをしている間中ずっとボタンを連打する必要があった。


つまりボタン連打が速いほど有利になるわけだが、
その連射のプロとして秒間16連射を叩き出す高橋名人
「ゲームは1日1時間!」というセリフとともに非常に有名だった。


「テレビゲームは子供が遊ぶもの」というイメージが強かったため、
ゲームに関係する大人としては絶大な知名度があり、
高橋名人を主役にしたゲームも複数あった。


しばらくすると「手袋にバネを仕込む不正をやった」という
謎の悪評が広まったが、
当時は真相を確認する方法が皆無だった。



シューティングウォッチ


自分の連射速度を測るだけの機械も発売された。
10秒間で2つのボタンを叩いた回数が表示されるので
160以上なら秒間16連射となる。
(ただし2つのボタンの合計なので高橋名人には及ばない)


筋肉を硬直させて振動を生み出す痙攣打ちや
2本の指で交互に叩くピアノ打ちよりも
軽く握った拳の爪4本でボタンをこする「こすり打ち」が強いのだが、
爪もボタンも傷だらけになった。


小学校の休み時間では連射数競争が繰り広げられたが、
そのうち誰かが金属の定規の片方を手で押さえて
反対側をビヨンビヨンと弾いてボタンに当てる方法を披露し、
それまでの記録とかけ離れた数字を叩き出したことで
みんなの熱中度が急速に冷めていった。



FC ファミコン 周辺機器 ハドソン ジョイカード 連射コントローラー


シューティングゲーム以外にも
「ハイパーオリンピック」のような連打を使うゲームが多かったため、
ファミコン前側の端子に差して使う連射コントローラーも発売された。


A・Bボタンの連射具合を切り替えられるので
ゲームによって適切な設定を選べるようになっていたが、
スポーツ選手のドーピングにも似た
「連射コントローラーは邪道」という空気があり、
むやみに使えばいいというものでもなかった。


時代が進むにつれてボタンを押しっぱなしにするだけで
何発も弾が出るシューティングが主流となり、
連打を強要されるゲームは見なくなっていった。

RPGブームの始まり

1980年代後半になるとゲームの中でも
RPGの人気が上がってきた。



ドラゴンクエスト


特に「ドラゴンクエスト」シリーズは発売のたびに熱狂ぶりが話題になり、
学校を休んで買いに行ったり、
無事に買えた子供を脅して取り上げる強盗など
社会問題としてもよくニュースになった。


同時に「ファイナルファンタジー」シリーズも台頭してきており、
人によってドラクエ派とファイファン派に分かれた。
(当時は「FF」ではなく「ファイファン」と呼ぶ人が多かった)


それだけに、それぞれを開発会社したエニックスとスクウェアが
合併してひとつの会社になったときは驚いた。


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ゲーム音楽のサウンドトラックなども出回り始め、
給食の時間にドラクエやファイファンのテーマ曲が放送で流れて
クラス内のゲーム好きたちが盛り上がったりしていた。


ただ、友達の家で遊ぶタイプのゲームではないので、
ファミコンを持っていない私は遊ぶ機会がなく、
「経験値」「転職」「白魔導士」などの言葉が理解できなかった。


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RPGは何日もかけて冒険を進めていくが、
ファミコンにはデータを記録する装置がなく、
電源を切ると遊んでいた情報はすべて失われてしまう。


そこで初期のドラクエでは位置情報やキャラの強さといった数値を
文字に置き換えてプレイヤーにメモらせ、
次回のプレイ時にそれを入力させることで前回の状態を再現する
「復活の呪文」という一種のパスワードが利用されていた。


復活の呪文を書き留めたメモさえあれば
友達の家のドラクエでも続きが遊べるという意味では画期的だったが、
解像度の低い当時のテレビと字が汚い小学生という組み合わせにより
「べ」「ぺ」、「め」「ぬ」が判別ができずに
再開不能になるという事故もよく起こった。



ドラゴンクエストIII そして伝説へ…


その後、電源を切るとデータが消えてしまうなら
ずっと電気を流し続ければいい、というアイデアから
ファミコンカセットの中に電池を仕込んだ
「バッテリーバックアップ」という仕組みが登場し、
「ドラゴンクエスト3」あたりから搭載されるようになった。
復活の呪文を使わずにセーブできる仕組みは画期的だった。




バッテリーバックアップのゲームを遊び終わるときは
「リセットボタンを押しながら電源を切る」という謎の操作を必要としたが、
誤操作や電池部分の接触不良によってセーブデータが消えてしまい、
長い冒険がやり直しになってしまうトラブルも話題になった。


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あの頃、ゲームといえばこんなだった<1977年~1986年>


目次


1977年生まれの私にとって
日本のゲーム業界の発展は自分の青春時代とピタリと一致する。


ゲームの思い出を昔懐かしく描いた
ピコピコ少年」や「無慈悲な8bit」はたまらない内容で、
若い頃の記憶が薄れてしまう前に書き留めておくことにする。

アタリショック

私が生まれる以前にもテレビゲームは存在していたが、
特定のゲームをプレイする専用機として作られており、
その機械では同じゲームしか遊べない、
別のゲームをプレイしたければ新しい機械を買うしかなかった。


そんな中、アメリカの「アタリ」という会社が
画期的なゲーム機を発売した。
1977年。私が生まれた年である。




Video Computer System(Atari 2600)」と呼ばれるこのゲーム機は
なんとゲームソフトのプログラム部分をカートリッジ化し、
好きなカートリッジを抜き差しすることで
同じ機械で違うゲームをプレイすることができたのだ。


この仕様は大成功でアタリのゲーム機は大ヒットし、
その後のゲーム機にも受け継がれることになった。
規格さえ守れば他社の作ったゲームソフトも動いたので
いろいろなメーカーが参入し、ゲームを売りまくった。


とにかく出せば売れるという状況だったので
粗悪なゲームも大量に出回った結果、
ユーザーの信用を失い、一気に人気がなくなった。
これが「アタリショック」と呼ばれる現象である。

ゲーム&ウォッチの流行

任天堂 Nintendo OC-22 オクトパス(OCTOPUS) GAME&WATCH ゲーム&ウォッチ(ゲームウォッチ)ワイドスクリーン


1980年前後の日本で流行っていたのは
ゲーム&ウォッチ(&は発音しない)」だ。
液晶画面を備えた小さなゲーム機で
基本的に本体ひとつで1種類のゲームしか遊べない。


まだゲームというものの地位が低かったため、
サラリーマンが通勤途中に手で隠しながらプレイできるように
この形になったと言われている。


白黒の液晶にあらかじめ画像が印刷されており、
特定の部位だけを点灯させることで
物体が動いているアニメーションに見せる仕組みだ。
「ビ…ビ…ビ…」というチープなビープ音しか鳴らないので
プレイしていると周囲の人をイライラさせた。


「ウォッチ」という言葉通り時刻を表示する機能もあったが、
ゲーム&ウォッチを時計として使っている人は見たことがないし、
もったいないので遊び終わったらすぐ電池を抜くのが普通だった。


私の母親はテレビゲーム反対派だったので
こういったゲーム類はまったく買ってもらえなかったのだが、
誕生日プレゼントにオセロを買うよう指示された祖母に頼み込んで
オセロの代わりに「グリーンハウス」を買ってもらった。


任天堂 Nintendo GH-54 グリーンハウス(GREEN HOUSE) GAME&WATCH ゲーム&ウォッチ(ゲームウォッチ)マルチスクリーン

後期に登場した豪華なモデルで
パカッと上下に開いて2画面でプレイするようになっており、
次々と出てくる毛虫が植物に到達する前に殺虫剤をかけるのだ。


勝手にゲーム&ウォッチを買わせたことで
ゲーム嫌いの母親にめちゃめちゃ怒られて
祖母の家から持ち帰ることが禁止されたが、
それでもそれが唯一のゲーム機だったのでかなり遊び込んだ。


最大の問題点は動力がボタン電池というところで、
単3電池のように家に買い置きされているものでもないし、
子供が買うにはハードルが高かった。


ただ、本来より薄いボタン電池でも直径が同じなら
小さくちぎったティッシュを挟むことで動作させられたので
そういうセコい知恵を働かせて遊んでいた。


電池を入れた直後は画面全体にすべての画像が一斉に表示されるのだが、
キャラクターが重ならないよう絶妙に配置されたデザインに感心した。

ファミコン登場


私が小学校になろうとする1983年、
任天堂から「ファミリーコンピュータ」が発売された。


アタリが発売したゲーム機のように
ゲームが入ったカセットを入れ替えることで
同じ本体でさまざまなゲームが遊べる仕様だったが、
子供が踏んでも折れるようなことがないよう、
コントローラーにはジョイスティックではなく、
ゲーム&ウォッチで使われていた十字ボタンが採用された。


当時の価格で14800円。
子供の小遣いでは手が届かない金額で、
お年玉を利用するか、誕生日やクリスマスに
プレゼントしてもらうしかなかった。


いずれにしても親の承認は絶対必要で、
ゲーム嫌いの母親が許してくれるはずもなく、
同級生の中でファミコンを持っていない少数派の子供になった。
現代で言うとスマホを持っていない高校生ぐらいの肩身の狭さだ。


当時のテレビは外部からの映像を簡単に映せる造りではなかったので
テレビのアンテナ線にRFスイッチという機械を挟み込んで
テレビの空きチャンネルにゲーム画面を表示させる仕組みだった。
このあたりも小学生には難しく、父親あたりに頼むことになるだろう。


つまりファミコンを遊ぶには両親の協力が絶対必要で、
まさに「ファミリー」が前提となるアイテムだった。

子供たちに浸透していくファミコン

ファミコンを持ってなかった私は
友達の家でやらせてもらうしかなく、
毎日誰かしらの家に遊びに行っていた。


ただ、ファミコンを持っている友達はゲームに飽き気味で、
「今日はサッカーをしよう」などと言われて
ガッカリすることも多かった。


また、当時は各家庭に1台しかテレビがなかったので
ファミコン目当てに遊びに行っても
友達の親がテレビを観ていると諦めるしかなかった。


ファミコンには2つのコントローラーが標準装備されていたし、
当時は何人もの同級生が集まってゲームするのが当たり前だったので、
1人プレイのゲームを交代で遊ぶより
2人同時プレイのゲームの方が好まれた。




そういった意味でよく目にしたのは「マリオブラザーズ」で、
やりこみ度がモロに影響する内容だったので
友達の家でしかプレイできなかった私はいいようにやられた。
そのせいか、この作品は今でもあまり面白いと思えない。


1台のファミコンを複数人で遊ぶ関係で
友達の兄弟や、その兄弟の友達が混ざってくることもあり、
微妙な居心地でゲームをした思い出がある。




ファミコンは2P側のコントローラー(通称「Ⅱコン」)だけに
なぜかマイクがついているのだが、
それを利用するゲームはほとんどなかったし、
ボリュームをいじると雑音が混ざるので触らないのがお約束だった。
ただ、Ⅰコンでプレイしている人に嫌がらせするために
兄弟や友達がマイクのボリュームを上げて叫ぶという場面はよく見た。


逆に、ゲームを一時停止(ポーズ)するための
スタートボタンはⅠコンにしかなかったので、
誰かがⅡコンでプレイしているときに
何度もスタートボタンを連打して
ボタン入力のタイミングを狂わせるという嫌がらせもあった。


ゲーム慣れしていない人ほど
画面の動きに合わせて身体が動いてしまうのだが、
コントローラーと本体をつなぐケーブルはそれほど長くないため、
思わず引っ張ってしまった衝撃でファミコンがフリーズし、
「ビーー」とゲームがバグった画面になることも多かった。


その瞬間、全員がシーンとなって動きが止まるのだが、
非常によくあるトラブルなので
いちいち騒ぎ立てずにリセットボタンを押して仕切り直した。
当時のゲームはセーブ機能もなかったので
電源を入れるたびに最初からプレイするのが当たり前だったし、
ハイスコアも毎回リセットされていたので被害らしい被害もない。


また、普通に始めようと思っても
カセットがなかなか認識されないことも多かった。
そんなときは一旦カセットを抜いて
端子部分に「フーッ」と息を吹きかけるのが恒例で、
実際にこの方法で認識率は飛躍的に高まった。




何人もの友達が互いの家を行き来したり
ゲームの貸し借りも発生するため、
カセットの裏に油性マジックで名前を書くのが珍しくなかった。
子供の世界ながら、盗難や借りパクがたびたび起こるので
きちんとした信用を築くのが大切だった。

スーパーマリオの衝撃


1985年、「マリオブラザーズ」で出てきたキャラクターを主人公にした
「スーパーマリオブラザーズ」が新たに発売された。


限られた画面を行き来するだけのそれまでのゲームと違い、
どこまでもスクロールする世界が
64ステージも用意されているという驚愕の完成度で、
ジャンプやダッシュといった操作感覚も素晴らしく、
今振り返ってもこの時代に作られたことが信じられない。


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当然ながら一躍人気ソフトになり、
どの家に遊びに行っても「スーパーマリオ」があったし、
インターネットがない時代に
1UPキノコやワープゾーンの隠し場所が
口コミでどんどん広まっていった。


友達の家でやらせてもらったそのプレイ体験は強烈で、
明らかにそれまでのゲームと違う次元だとわかった。
めちゃくちゃによくできていたし、
今までプレイしたどのゲームよりも面白かった。


そしてファミコンを買ってもらえない自分の境遇を恨んだ。
もっともっとゲームで遊びたい。
なぜ自分はゲームを遊ぶことができないんだろう。
イヤというほどゲームを遊ぶにはどうすればいいんだろう。


そうだ。大人になったらゲームを作る仕事をしよう
そのときの気持ちは今でも忘れていない。小学3年生のときである。


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