プチメタ3.0

刺激を受けた物事に対する感想や考察、自己成長や資産運用、ゲーム作りに関することなど。


あの頃、ゲームといえばこんなだった<1995年~1997年>


目次

ゲーム業界への道を歩み始める


高校3年生となり、進路指導がたびたび行われるようになった。


通っていた高校は割と厳しい学校だったので
担任の先生からは大学への進学を何度も勧められたが、
私はゲームプログラミングが学べる専門学校を選んだ。
小学3年生のときの誓いを果たすためだ。


専門学校には入試らしい入試もなく、
願書を書くだけでほぼ入学が決まった。
周囲の友達は大学受験のための勉強を続けていたが、
私も含めて早めに進路の決まった生徒にはアルバイトが許可された。




卒業までそれほど間がない時期だったので
年賀状で忙しくなる郵便局の短期アルバイトをすることにした。


その地域の郵便物の仕分けと配達をするのだが、
自分の家宛てのものも分類するため、
友達からの年賀状が年内に見れてしまうのは少し残念だった。

プレイステーションを購入


てっきり没落していくと思っていたプレイステーションだが、
「リッジレーサー」「鉄拳」「エースコンバット」など
その後にシリーズ化されるような人気作が生まれたこともあり、
予想外に世の中に定着しつつあった。


セガサターン派だった私も見過ごすことができなくなり、
郵便局のアルバイトで得た数万円の収入で買うことに決めた。
プレステは発売当時から1万円値下げされ、29800円だった。


サターン派とプレステ派に分かれていた頃に
2台とも持っている私は「かなりのゲーム好き」という見方をされたが、
機種を問わずに話題になったゲームを
どんどんプレイできるようになったのは大きかった。


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進化するコントローラー

ファミコンやスーファミと違い、
サターンにもプレステにもコントローラーは1個しか付いておらず、
複数人で遊ぶ場合には新たに購入する必要がある。


サターンのコントローラーは
前面にA・B・C・X・Y・Zの6つのボタン、
上側にL・Rの2つのボタンが付いていたが、
プレステの場合は前面に○・×・△・□の4つしかボタンがなく、
代わりに上側にL1・L2・R1・R2と4つもボタンがあった。




プレステ発売から2年ほど経ったときに
2本のアナログスティックと振動機能を追加した「アナログコントローラー」、
さらにそれをマイナーチェンジした
「DUALSHOCK(デュアルショック)」が発売された。


これにより、左右2本のアナログスティック、
左側に十字ボタン、右側に4つのボタン、
上側には左右2つずつ計4つのボタンという
ゲームコントローラーの基本スタイルが確立し、
その後20年以上も継承されている。


当初、アナログスティックはただのレバーに見えたが、
あるゲームをプレイ中に「R3」「L3」ボタンを押すよう指示され、
実は左右のスティックが押し込めることに気づいて驚いた。


アナログスティックは主人公の移動や視点の移動など
どのゲームでも多用される上に強い力がかかるため、
次第に削れてきたりニュートラルの判定が甘くなったりする。
このアナログスティックの登場によって
コントローラーは消耗品になってしまった。


初期のコントローラーは2500円程度だったが、
DUALSHOCKは3000円ほどになり、
のちのPS3用のDUALSHOCK 3は約5000円、
PS4用のDUALSHOCK 4は約6000円、
PS5用のDualSenseは約7000円と、
世代が進むたびに急激な値上がりを見せている。


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ゲームプログラミングの世界へ


私は専門学校に入り、ゲームプログラミングを学び始めた。


ずっと望んでいた世界ということもあって
毎日の勉強がめちゃくちゃ面白かった。
高校時代は社会や古語などの嫌い科目も勉強しないといけなかったが、
専門学校は自分の興味のある教科しかなくて天国に思えた。


学校のくせにこんなに楽しくていいのかと思ったほどで、
その勢いのまま学年1位の成績が取れたこともあった。
強く大学進学を勧めた高校当時の先生に
「やっぱりこの道で正しかったです」と言いに行きたくなった。


ちなみに高校では特異な存在だった「プレステ・サターン2台持ち」だが、
専門学校にはウジャウジャいたので何も珍しくなかった。
逆に、高校時代にあれだけいた「女子」が激減し、
身近な女性が実は貴重な存在だったことを痛感した。


当時使っていたノートパソコンは
ハードディスクが310MBしかないWindows95マシンだったが、
新しいことを学ぶたびに実験プログラムを作っていったので
卒業するまでの2年間で200個ほどになった。
また、その頃から著作表示に「D.IKUSHIMA」という名前を使うようになり、
安易に名前を変えずにブランド化していこうと考えた。


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「ゲームは遊ぶより作る方が面白いのでは?」と思い始めるようになり、
高校時代と比べてゲームで遊ぶ時間が少なくなったが、
話題になったものを知っておくのも勉強のひとつなので
意識していろいろなゲームに手を出すようにした。




基本的にはプログラマーを目指していたので
グラフィックや3Dモデルは専門外だったが、
友人がムービーを作れる無料ソフトを教えてくれたので
「ガングリフォン」のオープニングに興奮した気持ちを思い出して
つたない3DCGの動画を作ったこともあった。




毎日が充実しすぎてあっという間に過ぎていったが、
手探り状態の就職活動の結果、なんとかゲーム会社への入社が決まった。
10年間抱えていた念願の夢が叶った瞬間である。

さまざまなゲーム機の乱立


1990年半ばはプレステやサターン以外にも
多数のゲーム機が各メーカーから発売された。


Panasonicからは「3DO REAL」、NECからは「PC-FX」、
バンダイからは「プレイディア」、その後継機の「ピピンアットマーク」。
これらは一瞬だけ話題になって市場から消えていった。




一番のイロモノといえば任天堂が出した「バーチャルボーイ」だろう。


自立するゴーグル型の本体を両目で覗くスタイルになっており、
左右で角度の違う映像を見ることで立体視を実現するが、
濃淡の異なる赤色しか表示できない。


一度だけ実際にプレイした経験があるが、
立体と言いつつも平面の板が前後に並んでいるような印象で、
いわゆる3Dゲームとはまったく違う見せ方だった。
赤1色の画面も長時間プレイするには厳しすぎた。


ファミコン、スーファミ、ゲームボーイと
ゲーム機の主流を生み出してきた任天堂が
大失敗したという評価を受け、歴史から消された。




しかし、同時期に発売された「NINTENDO64」は一定の人気を集めた。


プレステやサターンのようなゲームディスクではなく
スーファミ同様のカートリッジタイプを採用し、
「スーパーマリオ64」「ゴールデンアイ 007」「どうぶつの森」、
「ゼルダの伝説 時のオカリナ」「大乱闘スマッシュブラザーズ」など
ゲーム史に残る名作を発売していった。


しかし、プレステやサターンから1年半も遅れて発売されたことや
ソフトのラインアップが少なかったこと、
ファイナルファンタジーやドラゴンクエストの新作が
プレステで発売されたことなどが原因でシェアがあまり伸びず、
ゲーム機としては3番目というやや影の薄い存在だった。


私もNINTENDO64をプレイする経験がほとんどなく、
専用タイトルとして発売されたゲームは詳しくないままだ。


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