プチメタ3.0

刺激を受けた物事に対する感想や考察、資産運用や英語学習、自己成長に関することなど。


あの頃、ゲームといえばこんなだった<1977年~1986年>

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目次


1977年生まれの私にとって
日本のゲーム業界の発展は自分の青春時代とピタリと一致する。


ゲームの思い出を昔懐かしく描いた
ピコピコ少年」や「無慈悲な8bit」はたまらない内容で、
若い頃の記憶が薄れてしまう前に書き留めておくことにする。

アタリショック

私が生まれる以前にもテレビゲームは存在していたが、
特定のゲームをプレイする専用機として作られており、
その機械では同じゲームしか遊べない、
別のゲームをプレイしたければ新しい機械を買うしかなかった。


そんな中、アメリカの「アタリ」という会社が
画期的なゲーム機を発売した。
1977年。私が生まれた年である。



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Video Computer System(Atari 2600)」と呼ばれるこのゲーム機は
なんとゲームソフトのプログラム部分をカートリッジ化し、
好きなカートリッジを抜き差しすることで
同じ機械で違うゲームをプレイすることができたのだ。


この仕様は大成功でアタリのゲーム機は大ヒットし、
その後のゲーム機にも受け継がれることになった。
規格さえ守れば他社の作ったゲームソフトも動いたので
いろいろなメーカーが参入し、ゲームを売りまくった。


とにかく出せば売れるという状況だったので
粗悪なゲームも大量に出回った結果、
ユーザーの信用を失い、一気に人気がなくなった。
これが「アタリショック」と呼ばれる現象である。

ゲーム&ウォッチの流行

任天堂 Nintendo OC-22 オクトパス(OCTOPUS) GAME&WATCH ゲーム&ウォッチ(ゲームウォッチ)ワイドスクリーン


1980年前後の日本で流行っていたのは
ゲーム&ウォッチ(&は発音しない)」だ。
液晶画面を備えた小さなゲーム機で
基本的に本体ひとつで1種類のゲームしか遊べない。


まだゲームというものの地位が低かったため、
サラリーマンが通勤途中に手で隠しながらプレイできるように
この形になったと言われている。


白黒の液晶にあらかじめ画像が印刷されており、
特定の部位だけを点灯させることで
物体が動いているアニメーションに見せる仕組みだ。
「ビ…ビ…ビ…」というチープなビープ音しか鳴らないので
プレイしていると周囲の人をイライラさせた。


「ウォッチ」という言葉通り時刻を表示する機能もあったが、
ゲーム&ウォッチを時計として使っている人は見たことがないし、
もったいないので遊び終わったらすぐ電池を抜くのが普通だった。


私の母親はテレビゲーム反対派だったので
こういったゲーム類はまったく買ってもらえなかったのだが、
誕生日プレゼントにオセロを買うよう指示された祖母に頼み込んで
オセロの代わりに「グリーンハウス」を買ってもらった。


任天堂 Nintendo GH-54 グリーンハウス(GREEN HOUSE) GAME&WATCH ゲーム&ウォッチ(ゲームウォッチ)マルチスクリーン

後期に登場した豪華なモデルで
パカッと上下に開いて2画面でプレイするようになっており、
次々と出てくる毛虫が植物に到達する前に殺虫剤をかけるのだ。


勝手にゲーム&ウォッチを買わせたことで
ゲーム嫌いの母親にめちゃめちゃ怒られて
祖母の家から持ち帰ることが禁止されたが、
それでもそれが唯一のゲーム機だったのでかなり遊び込んだ。


最大の問題点は動力がボタン電池というところで、
単3電池のように家に買い置きされているものでもないし、
子供が買うにはハードルが高かった。


ただ、本来より薄いボタン電池でも直径が同じなら
小さくちぎったティッシュを挟むことで動作させられたので
そういうセコい知恵を働かせて遊んでいた。


電池を入れた直後は画面全体にすべての画像が一斉に表示されるのだが、
キャラクターが重ならないよう絶妙に配置されたデザインに感心した。

ファミコン登場

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私が小学校になろうとする1983年、
任天堂から「ファミリーコンピュータ」が発売された。


アタリが発売したゲーム機のように
ゲームが入ったカセットを入れ替えることで
同じ本体でさまざまなゲームが遊べる仕様だったが、
子供が踏んでも折れるようなことがないよう、
コントローラーにはジョイスティックではなく、
ゲーム&ウォッチで使われていた十字ボタンが採用された。


当時の価格で14800円。
子供の小遣いでは手が届かない金額で、
お年玉を利用するか、誕生日やクリスマスに
プレゼントしてもらうしかなかった。


いずれにしても親の承認は絶対必要で、
ゲーム嫌いの母親が許してくれるはずもなく、
同級生の中でファミコンを持っていない少数派の子供になった。
現代で言うとスマホを持っていない高校生ぐらいの肩身の狭さだ。


当時のテレビは外部からの映像を簡単に映せる造りではなかったので
テレビのアンテナ線にRFスイッチという機械を挟み込んで
テレビの空きチャンネルにゲーム画面を表示させる仕組みだった。
このあたりも小学生には難しく、父親あたりに頼むことになるだろう。


つまりファミコンを遊ぶには両親の協力が絶対必要で、
まさに「ファミリー」が前提となるアイテムだった。

子供たちに浸透していくファミコン

ファミコンを持ってなかった私は
友達の家でやらせてもらうしかなく、
毎日誰かしらの家に遊びに行っていた。


ただ、ファミコンを持っている友達はゲームに飽き気味で、
「今日はサッカーをしよう」などと言われて
ガッカリすることも多かった。


また、当時は各家庭に1台しかテレビがなかったので
ファミコン目当てに遊びに行っても
友達の親がテレビを観ていると諦めるしかなかった。


ファミコンには2つのコントローラーが標準装備されていたし、
当時は何人もの同級生が集まってゲームするのが当たり前だったので、
1人プレイのゲームを交代で遊ぶより
2人同時プレイのゲームの方が好まれた。



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そういった意味でよく目にしたのは「マリオブラザーズ」で、
やりこみ度がモロに影響する内容だったので
友達の家でしかプレイできなかった私はいいようにやられた。
そのせいか、この作品は今でもあまり面白いと思えない。


1台のファミコンを複数人で遊ぶ関係で
友達の兄弟や、その兄弟の友達が混ざってくることもあり、
微妙な居心地でゲームをした思い出がある。



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ファミコンは2P側のコントローラー(通称「Ⅱコン」)だけに
なぜかマイクがついているのだが、
それを利用するゲームはほとんどなかったし、
ボリュームをいじると雑音が混ざるので触らないのがお約束だった。
ただ、Ⅰコンでプレイしている人に嫌がらせするために
兄弟や友達がマイクのボリュームを上げて叫ぶという場面はよく見た。


逆に、ゲームを一時停止(ポーズ)するための
スタートボタンはⅠコンにしかなかったので、
誰かがⅡコンでプレイしているときに
何度もスタートボタンを連打して
ボタン入力のタイミングを狂わせるという嫌がらせもあった。


ゲーム慣れしていない人ほど
画面の動きに合わせて身体が動いてしまうのだが、
コントローラーと本体をつなぐケーブルはそれほど長くないため、
思わず引っ張ってしまった衝撃でファミコンがフリーズし、
「ビーー」とゲームがバグった画面になることも多かった。


その瞬間、全員がシーンとなって動きが止まるのだが、
非常によくあるトラブルなので
いちいち騒ぎ立てずにリセットボタンを押して仕切り直した。
当時のゲームはセーブ機能もなかったので
電源を入れるたびに最初からプレイするのが当たり前だったし、
ハイスコアも毎回リセットされていたので被害らしい被害もない。


また、普通に始めようと思っても
カセットがなかなか認識されないことも多かった。
そんなときは一旦カセットを抜いて
端子部分に「フーッ」と息を吹きかけるのが恒例で、
実際にこの方法で認識率は飛躍的に高まった。



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何人もの友達が互いの家を行き来したり
ゲームの貸し借りも発生するため、
カセットの裏に油性マジックで名前を書くのが珍しくなかった。
子供の世界ながら、盗難や借りパクがたびたび起こるので
きちんとした信用を築くのが大切だった。

スーパーマリオの衝撃

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1985年、「マリオブラザーズ」で出てきたキャラクターを主人公にした
「スーパーマリオブラザーズ」が新たに発売された。


限られた画面を行き来するだけのそれまでのゲームと違い、
どこまでもスクロールする世界が
64ステージも用意されているという驚愕の完成度で、
ジャンプやダッシュといった操作感覚も素晴らしく、
今振り返ってもこの時代に作られたことが信じられない。


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当然ながら一躍人気ソフトになり、
どの家に遊びに行っても「スーパーマリオ」があったし、
インターネットがない時代に
1UPキノコやワープゾーンの隠し場所が
口コミでどんどん広まっていった。


友達の家でやらせてもらったそのプレイ体験は強烈で、
明らかにそれまでのゲームと違う次元だとわかった。
めちゃくちゃによくできていたし、
今までプレイしたどのゲームよりも面白かった。


そしてファミコンを買ってもらえない自分の境遇を恨んだ。
もっともっとゲームで遊びたい。
なぜ自分はゲームを遊ぶことができないんだろう。
イヤというほどゲームを遊ぶにはどうすればいいんだろう。


そうだ。大人になったらゲームを作る仕事をしよう
そのときの気持ちは今でも忘れていない。小学3年生のときである。


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