その1
自然治癒力に期待していた虫歯だが、
再石灰化のガムを噛んでみても
それ以上の早さで侵略されるので、どうにもならなくなって
ついに歯医者に行くことにした。
そして3ヶ月。
自覚がなかった虫歯まで治療して完璧になった。
長かった歯医者通い。
仕事終わりに歯を磨き、帰りに歯医者に寄る生活もこれで終わる。
虫歯の治療と並行して歯石取りもやっていたが、
これも今日で終わりだ。ついに。
しかし。
これで歯医者とは縁が切れると思ったのに。のに。
「虫歯の治療が終わったので、次は歯石取りだけです」って
言ったのに。のに。
「今後は歯石取りだけです」という意味でなく、
「『次回は』歯石取りだけです」って意味だったとは。
まさか「親知らず」なんて言葉を聞くとは。
その2
今までの人生で一度も抜いたことなく4本とも健在で、
うち3本が頭を出しているようで。
自分でもレントゲン写真を見たので間違いでもないようで。
誰から聞いた話でも共通して痛々しく、
あの無意味に生えてくる歯が、ついに私にも。
レントゲンで見た限り、下の親知らずは
どう見てもラスボスですよ。ラスボスなのに2人。ああ。
その3
「どうします?抜きますか?」
助手の女性が聞く。
かわいい人だが、話す内容はシビアだ。
「抜かなくてもいいんですか?」
一応、聞いてみる。親知らずだって無駄に生えてくるわけではあるまい。
「抜かなくていい」と言ってくれ。
「このままでいい」と。SAY、YES。
世の中には無駄なものなんてないんだ。
ワキ毛だって歩くときの腕の振りをスムーズにしているんだ。
親知らずだって必要だろう。食べ物が奥の方でも噛めるじゃないか。
「いえ、抜いた方がいいですね」
ギャア。答えが決まっているならなぜわざわざ聞いたんだ。
やっぱりいらないんだ。盲腸と同じだ。指毛なんだ。
いらないならはじめから生えてこなけりゃいいのに。
「じゃあ抜いてください」
オレ、勇者になったよ、母さん。
その4
この世には2種類の人間がいる。
親知らずを抜く人間と、抜かない人間だ。
その5
考えてみたが、おかしいんじゃないか。
私だけが親知らずで辛い思いをするなんて。
世の中には親知らずなんて意識せずに老後まで生きる人もいるだろう。
親知らず知らずってわけだ。許せない。
へその緒はみんなが切るのに、親知らずは選ばれた人だけなんて。
こうなったら親知らずを抜かずに平和に生きている人にまで
この恐怖を伝えてやる。
私の持ちうる限りの文章表現で親知らず知らずな人たちに。
その後、読んだ人が親知らずを抜くハメになって
2度辛い思いをするとしても。
この恐怖、増幅して世界中へ発信だ。これはもはやテロですよ。
その6
こんなときに限ってすぐには予約が取れないものだ。
決戦は2週間先。火曜日。
抜くと決まった以上、ひと思いにやって欲しいのに
この嫌な2週間はなんだ。執行猶予か。
そしてついに火曜日が来た。
その7
むう、暑い。いや寒いのか。
嫌な汗をかいている。エアコンが効いてるのに。
「生島さん、2番へ」
「ハ、ハイ」
待合室から2番チェアーへ。
次に戻ってくるときには
親知らずが3本だけの男になっているはずだ。
「じゃあ、今日、上の親知らず抜きますので」
「ハイ」
やっぱりウソじゃなかったんだ。現実だ。
この女医さんが抜くのだ。
マジで本当なのか。ウソじゃないのか。
この世はマトリックスなのか。
今ならためらわず赤い薬を飲むぞ。
その8
「じゃあ、麻酔をしますね」
そうだ、麻酔だ。
痛くないようにするための麻酔なのに
それ自体が痛いという矛盾をかかえた歯医者の麻酔だ。
針がものすごく奥深くまで入っている感触がするやつだ。
ウィーン。
あれ、刺してるの?全然痛くない。
そういえばこの歯科クリニックは痛みが少ないように
電動の麻酔注射を使っているんだった。こんなに痛くないものなのか。
本当に麻酔してるのか?
音がするだけの機械で、「麻酔している気」にさせる装置じゃないのか。
あ、でも効いてきた。
喉の横の方がしびれてきた。
奥歯の麻酔だけに変なところがしびれる感じだ。
そして苦い。うがいをしても苦い。
その9
麻酔が効くまでしばらく待たされ、
また先生が戻ってくる。
「痛かったら左手を上げてください」
そう言って台の上の器具をつかむ。
怖いので目を閉じることにした。
ここからは感触による想像だけだ。
む。ラジオペンチのようなもので奥歯を挟んだ気がする。
それですか。それが親知らずですか。
ぎゅいむ。
おお、抜くつもりですね。引っこ抜く感じで力が入ってるんですね。
ぎゅぎゅぅ。
うお、痛みは全然ないけど、
めちゃめちゃ力が入ってるのがわかる。
歯って女性の力で抜けるのか。
もし抜けなかったら痛み損じゃないか。
ぎゅーーぎゅぅ。
変な擬音と思われるかもしれないが
極めて正確に表現している。
痛みが全然ない、素晴らしい。
痛みはなくても感覚はあるので
歯をつかんでひっぱる感触だけが伝わってくる不思議な感じ。
さっきからちっともペンチが進んでないような気がする。
目をつぶっているわけだし、そもそも口の中なので
本人にはまったく状況がわからない。
今、何%ぐらい抜けたんだ。進行状況を教えてくれ。
その10
「ちょっと口を閉じ気味にしてください」
治療がしやすいように口を大きく開ければいいような気がするが、
実は奥歯を触る場合、口を大きく開けすぎると
口の脇の皮膚が張って手が入りにくいのだ。
やや閉じ気味で口をゆるめた方がいいらしい。
鏡で奥歯を見てみるとわかるが、
親知らずというのは信じられないぐらい奥にあるわけで、
口から手を入れて奥歯を抜くなんて、めちゃくちゃ作業がしづらそうだ。
閉じ気味にして緩んだ口を横に引っ張られて作業が進む。
抜く作業に力がいるのか、口を引っ張っている指にも
めちゃくちゃ力が入っている。
今、「学級文庫」って言わされたら
「がっきゅううんこ」になってしまうのは間違いない。
それぐらい引っ張られているのだ。
その11
先生が右に回りこむ。作業の姿勢を変えたのだ。
ミキミキ。
おおぅ。今、なんか鳴りましたよ。誰かキットカットでも食べてる?
ミキャ、ピキピキ。
ギャア。なんか今、ちょっと痛かったかも。
左手上げる?いや、まだいい。
ピキビキビキ。
ううぁ。間違いなく私の体が鳴っている。むしろ骨が。
外から聞こえてくるんじゃなくて体の中から音が伝わってくる。
耳とか関係ない。直接脳に振動が伝わってくる。
これが骨伝導システムか。雑音もなくてクリアだ。
その12
アイタタタタタタ。
先生、その角度痛いです。アイテテテ、そっちも痛いです。
ぐりぐりしてます。先生、ぐりぐりしてますね。
抜けないから横に振って緩めてるんですね。でもそれめちゃくちゃ痛いです。
そっちには曲がらないです。可動範囲超えてます。イテテテテ。
そういえば壁の画鋲が抜けない時にぐりぐりして抜いたよ。
ごめん、画鋲も痛かったんだね。これからはまっすぐ抜くよ。
イデデデデデデ。
痛いです。今、何割ぐらい抜けましたか?現状を報告してください。
寝てるだけの私には、まったく抜けてない気すらしてきます。
先生が横に揺らすたびにピキピキと音がします。
先生、その歯は脳につながってるのかもしれません。
抜くとなんか出てくるかもです。
アイデデデデデデデ。
わかった、しゃべるよ。全部オレがやったよ。自白するよー。
「ちょっと痛い?」「ハイ」
ちょっとじゃないけど。
気が付いたら右目から一筋だけ涙が流れてた。
麻酔が追加されました。
その13
汗びっしょりです。外からはわかりませんが、
体の後ろ半分が全体的に濡れてます。
シートと接触している部分がジワジワと濡れてるようです。なぜか敬語です。
ああ、麻酔ね。痛いね。チクッとね。
そんなことどうでもいいよ。
麻酔は脳につながらないもん。痛いうちに入らないよ。
本当に痛いときは腕が勝手に外側に開くんだよ。発見したよ。
痛いと人間はラジオ体操第2を始めるんだよ。
再開ですよ。
イデデデデデデ。
先生、麻酔効いてる?追加したの?ホントに?
歯を抜くのは初めてじゃないけど、
今まで抜いたのは乳歯とか虫歯だったわけで。
つまり根っこが弱ったり抜ける準備ができてる歯ばかりだったわけで。
枯れ木を引っこ抜いてただけだったわけで。
親知らずってのはめちゃくちゃしっかり根付いてて
これからもそこに居座り続けようとしているわけで。
さらに奥歯なだけあってベンツみたいな頑丈さ。
枯れ木じゃなくて大樹ですよ。この木なんの木気になる木なわけですよ。
先生が作業がやめたのでついに終わったのかと思ったら
道具を持ち替えてコンティニュー。
まだ抜けていなかった。
その14
イデッ!イダダ!
「はい、抜けましたー」
やっと抜けた。
抜けたところがどうなってるか舌で触ってみたいけど、怖いので我慢。
軽くうがいをしたあと、止血のためにガーゼをかまされて放置される。
途中、気分が悪くないか聞かれるが、特に普通なので大丈夫だ。
歯と気分というのは何か関係があるのか。
さらに「抜歯をした方へ」というプリントを渡された。
抜いた後にできる「血餅(けっぺい)」という
ゼリーのようなかさぶたを取ると骨がむき出しになって
治りが遅くなったり痛みが出るので取らないようにとか、
刺激物を食べないようにとか、読んでると怖くなってくる。
あれ?
読み終わってボーッとしているとなんか頭が冷たくなってきた。
おおっ、これはヤバイかも。サーっと青ざめていく感じがする。
採血した直後と同じ感覚だ。
ガーゼを噛んで止血しているわけだが、
あとどれぐらい放置されているのだろう。言った方がいいのか。
いや我慢だ。どうせすぐ元に戻る。
貧血っぽく考えるから余計貧血になるんだ。
楽しいことを考えろ。えーっと今週のネクストコナンズヒントはなんだったかな。
ドラえもんの身長は129.3センチで、体重も……。
いやムリ。ごまかせない。
「すいません、ちょっと気分が」
ガーゼを噛みながら後ろにいた先生に言って、シートを倒してもらう。
ふー、はじめからこうすればよかった。
脳に血が戻るのがわかる。あのままだとブラックアウトしてたかも。
その15
「あ、止血されてますねー」
ガーゼを外して先生が確認する。
血が止まったら今日は帰っていいようだ。
まだ2本、しかも下アゴの巨大なやつが残っているわけだけども。
歯を持って帰るか聞かれたけども断った。
もう十分。27年一緒にいたけど、ここでお別れだ。
チラッと見たら血まみれの歯が見えた。
根っこが2センチぐらいありそう。長っ。
受付で痛み止めと出血したときのためのガーゼをもらう。
やり遂げた。今日はやり遂げたぞ。
その16
帰るときも意外と大丈夫。上アゴの細めの親知らずだったからかも。
とか思ってたら電車を降りた後にズシンという感覚が。
電車では寝てたので意識しなかっただけか。
数歩歩いた後に立ち止まりたくなるぐらい痛い。うずくまろうか。
気温が高いのも相まって汗がやたら出てくる。
自販機で飲み物を買ってその場で痛み止めを飲もうかと思うぐらい痛い。
10分ほど耐えながら家路を急いでいるとなんとか峠を越えた。
家に帰ってすぐに痛み止めを飲む。
痛み止めは4時間ほど間隔を空けないといけないらしく、今日はもう飲めない。
家に帰り、抜歯したところを鏡で見てみる。
あっ、こんにゃくゼリーだ。
こんにゃくゼリー(ぶどう味)がくっついてる。
これが「血餅」ってやつのようだ。
口の中のかさぶただけど、
ホントにゼリーみたいでぷるぷるしてる。それがむしろ怖い。
その17
親知らずを抜いて初めての食事だ。
左上の抜歯部で噛んでしまうと
間違いなく嫌な思いをするだろうから右側のみ使って噛む。
でも、怖いのは食事じゃなかった。その後だ。
歯を磨くのが怖い。
(「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の「目を開けるのが怖い」の言い方で)
歯ブラシが触れても出血するだろう。しかもうちの歯ブラシは極細毛。
傷口に針が差し込まれているのと変わらない。
しかし歯を磨かないと虫歯になるかもしれないジレンマ。
しょうがないので鏡を見ながら恐る恐る磨く。地雷に注意だ。
その18
連続で抜歯するのは酷なので、
2本目の親知らずは20日後に抜くことになった。ずいぶん先だ。
1本目の抜歯部については痛み止めを飲むこともなく、
徐々に普通の歯茎となっていった。嬉しい。
その19
そして20日後。2本目の抜歯の日。
しかも今回は下アゴだ。どう考えてもサイズもパワーも前回より上だ。
名前を呼ばれてシートに横たわる。
ここの歯医者はシートごとに液晶モニタが設置されていて
毎回DVDが流れている。今日の映画は「キル・ビル」だ。
と思ってたら先生が来た。
今日は前回の先生じゃなく院長らしき人だ。
前の先生が松たか子だとすると、今回の先生は細木数子だ。強そう。
前回と同じく、まず麻酔を打つ。
外側だけじゃなく内側の歯茎にも麻酔を打つ。
歯を境に内外両方から攻めるのだ。
そしてそのまま先生が器具を持ち出す。
えっ、もう麻酔効いてるの?ホントに?
その20
先生が器具で歯をガッシリはさむ。
ものすごく力が入っているのがわかる。歯がピキピキ鳴ってる。
砕くのか?
聞いたことがある。親知らずを一旦砕いて
いくつかのパーツに分けてから抜歯する方法があるそうだ。
たしかノミとハンマーみたいなもので叩いて砕くような話だったが、
もしかしてこの先生はペンチで歯を砕こうとしているのか?
ピキピキピキ。そうこう考えているうちにどんどん力が強まる。
またもや骨伝導で音が聞こえる。
今回も脳に直接つながっているようなダイレクト感。
グキグキグキ。うぎゃ。
パキャピキ。いたたたたた。
グリッ。痛い!ねじってるねじってる!
バキッ!バキッ!いたたたたただだだだだダ!
「はい、抜けましたー」
その21
おおっ、もう抜けた。早い。でも痛い。
砕くのかと思ってたけど、単にしっかり挟んで抜こうとしているだけだった。
前より短かったけど、瞬間的な痛さはかなり上。
でも今回の方が気持ち的にはちょっとだけ楽だった。
抜歯する前に見た「キル・ビル」はちょうど沖縄のシーンだったけど、
歯が抜けてからもまだ沖縄だった。それぐらい短時間。
その22
前と同じくガーゼを噛まされて止血する。
痛みで放心状態だったので先生に「大丈夫ですか?」とか言われた。
今回も歯は持って帰らない。
抜けた親知らずはさすがに下アゴらしい、かなりしっかりしたものだった。
止血が終わるまで待っている間、妙に汗が出てくる。
冷房を強めて欲しい。抜くときの嫌な汗が今まとめて出てきた感じだ。
思ったよりも普通に抜けてよかった。
歯茎を切開して親知らずをむき出しにして抜歯したり、
最悪の場合、頬のところを切開して
口の外側から歯を取り除いたりするというのも聞いたことがあるだけに、
抜くだけで終われた今回はよかった。
縫合したり抜糸したりすることを考えれば負担が軽い。
その23
止血も終わったので、歯医者を後にする。
下アゴの場合は傷口が深いせいか、
化膿止めのための抗生物質をもらった。
痛み止めの薬と違って、渡された分をすべて飲み切らないといけないらしい。
今ごろ麻酔が染みてきたのか、舌の部分までしびれてきた。
誰かに会ってもちゃんとしゃべれそうにない。
たとえ小西真奈美に逆ナンされたとしても
対応できないぐらいしびれてる。
歩くのが辛い。歩く振動に合わせて痛みが来る。
電車に乗っている間はあまり痛くないのだが、降りて歩き始めるとまた痛い。
ズキズキとした痛みに、夕食も諦めようかと思うほどテンションが下がった。
しかも今晩はラーメン。ムリ。食べづらい。
歯を抜いた右側の歯では噛めないので、頭を左に傾けながら食べる。
いつもは唐辛子をかけて食べるけど、
今日はひどいことになりそうだったので、あきらめてそのままで食べる。
これからしばらくはこの不便な食べ方になりそうだ。
その24
鏡で覗いてみると、今回もある。こんにゃくゼリー。
一番奥のやつです。グロくてすみません。
歯の噛み合わせのせいか、
ゼリーが綺麗に歯の形に出来上がっている。赤い歯みたいだ。
次の日、もう一度見てみるとなぜか白く変色していた。
固まったのかもしれないが、せっかく抜いたのに
また親知らずが生えてきたのかと思って
ちょっとあせった。
その25
今回も慎重に慎重を重ねて歯を磨いていたのに、
気がついたらこんにゃくゼリーがなくなってた。
抜けた部分に穴がポッカリ。空っぽ。
食事の時、その穴の部分では噛まないようにしてるんだけど、
どうしても米粒とかが入ってしまう。
怖がって歯ブラシを避けていると
どんどん食べカスがたまっていくような気がする。
いずれこの穴は埋まるんだろうけど、
そこに食べカスが残っていたらどうなるんだろう。
治癒するうちに押し出してくれたらいいけど、
食べカスが封入されてしまったらどうするんだ。切開するのか?
などと考えてると怖くなってきた。
歯茎にもよくないだろうから
穴を清潔に保つべく勇気を出して歯磨きをする。
歯を磨くたびに出血して洗面所が赤く染まるが、
歯茎が治るにつれておさまるだろう。
その26
また3週間ほど期間を空け、最後の親知らず抜歯。
すでに下アゴの親知らずを抜いた経験があるので
気分はだいぶ楽だ。
最後は左奥の親知らずだが、
鏡で確認すると半分ぐらい歯茎が乗っかってて見えづらい。
このまま抜けるのだろうか。
3本目とはいえ、やはり緊張する。
汗をかいているのは夏のせいだけではない。
シートが倒され麻酔が打たれる。
いい加減に麻酔も打たれ慣れていい頃だが、やはり嫌な気持ちだ。
針が刺さる瞬間のチクリとした感覚なんて
鼻毛を抜くよりも遥かに軽い痛みのはずなのに
どうにも気持ち悪い。
ぐんぐんと麻酔が入っていく。早くも舌の奥がしびれてきた。
前回と同じく、歯の外側だけでなく内側の歯茎にも麻酔が打たれた。
「軽くうがいをしてください」と言われるが
感覚の弱くなった口でうまく水が吐き出せない。老人か。
そのまま5分ほど放置される。
その27
ボーッと夕方の空を見ていた。
18時とはいえ夏なのでまだ夕焼けにはなっていない。日が長いのだ。
水色の微妙なグラデーションが窓の外に広がっている。
などとカッコつけていると
ビリビリと口の左奥の感覚がほとんどなくなっていた。
麻酔が効くまでの間ってのは本当に暇だ。
抜歯のことばかり考えてしまうと怯えて過ごす5分間になってしまうが、
怯えても怯えなくても間違いなく抜歯は行われるので
どうせなら他のことを考えていた方がいい。3本目にして悟りを開いた。
2本目の時と同じ近距離パワー型の院長が来てシートを倒す。
ガーゼを口に放り込まれ、顔をやや先生の方に向けさせられる。
ここが歯医者じゃなかったらラブシーンのような姿勢だが、
間違いなくここは歯医者だ。
器具でグッグッと歯か歯茎を押している感じがする。
鏡で見たときに歯茎がかぶさったような感じで歯が見えにくかったので
もしかしたら歯茎を押し込んで歯をむき出しにしているのかもしれない。
その後ガッと歯がつかまれた感覚があり、グイグイと抜きにかかった。
ただ、今日は麻酔がかなり効いているのか
前回よりもかなり感覚が薄く、痛みがほとんどない。
ぐぐぐっと歯が抜けつつあるのはわかるものの、
ほとんど抵抗がない感じだ。
「はい、抜けましたー」
え?もう?
全然痛くなかった。
麻酔が効きまくってたのか、歯の根っこが弱っていたのか。
クライマックスなのに、この盛り上がりのなさ。
2本目と3本目、逆の順番の方がよかったかも。
その28
下アゴの抜歯は麻酔が多いのか
2時間ぐらい経ってもまだしびれているほど。
今日の夕食がうな丼とそばだった。
抜歯直後にはかなり食べづらいメニュー。
昨日までは右の抜歯部をいたわって左でばかり噛んでいたのに
今日からは右で噛む生活が始まる。
また2週間ほど片方だけで噛む生活になるだろう。
しかも当日はまだ傷が新しいので、ちょっとしたことですぐ出血する。
血はすぐ止まるものの、夜寝るまでに何度か血を味わった。
その29
すべての人に同じように当てはまるわけではないと思うが
参考までに治療費用に関する情報も書いておく。
上アゴ左奥親知らず抜歯 |
1930円 |
翌日の消毒 |
170円 |
下アゴ右奥親知らず抜歯 |
3750円 |
翌日の消毒 |
170円 |
下アゴ左奥親知らず抜歯 |
4160円 |
翌日の消毒 |
170円 |
合計 |
10350円 |
---|
かかった費用の細かい内訳まではわからない。
すべて保険を利用した治療の自己負担分の金額だが、
今回、親知らずの抜歯のみの通院ではなく
それまでに虫歯治療のために通っていたので
そのときに撮ったレントゲン写真が親知らず抜歯の際にも利用できた。
もし抜歯のためだけに行くとしてもレントゲンを撮るだろうから
その分の費用は別にかかるはずだ。
こうやって見ると、保険を使ったとはいえ結構な額になっている。
抜歯するまでの虫歯の治療分も合わせると
もっと額は大きくなるのだ。
虫歯が悪化するまで粘った分、
治療期間も伸びたし、金額も大きくなった。
その30
親知らずを抜くというと、とてつもなく嫌な気持ちになるが、
放置してどうしようもないほどに悪化してから処置するよりも
普通に生えているときに
短時間の痛みに耐えて抜歯した方が遥かに楽だと思う。
そう思えば抜いていてよかった気がする。
抜いた親知らずが再び生えてくることは絶対にないが、
無事に生えている親知らずが
将来もずっと無事か、というとそうとも限らない。
いつ爆発するかわからない爆弾を抱えて生活するより
早いうちに撤去した方が安心できる。
まっすぐに生えていた私の親知らずでさえ、
たまに周りの歯茎が腫れたりしていた。
普段は親知らずの刺激に抵抗できていた歯茎が、
疲れて体力が落ちたときなどに炎症を起こしていたらしい。
でも抜歯した今となってはその心配はない。
親知らずがなくなって間もないので、何かを食べるときに
歯がなくなった奥の方で噛んでしまいそうな変な感覚にはなるが、
それもじきに慣れるだろう。
残り1本、上アゴの右奥に親知らずが眠っているはずだが
まったく生えてきていない上に特に問題も指摘されていないので
今のところはそのままだ。
私が今後、親知らずに関わるとすれば
この1本が悪化したり生えてきたときだけだ。
4本とも残っている人から比べればずっと危険は少ない。
その31
それから、歯医者によっても
処置の仕方や作業の手際に差があるだろう。
私が今回通院したところは女性医師ばかりで
丁寧な作業と細かい説明をしてくれるクリニックだったので非常に信頼できた。
4年ほど前に行っていたところも作業が丁寧で、
できる限り痛くないように処置してくれた。
でも子供の頃に通ったところはかなり痛かったし、雑だった気もする。
歯医者嫌いになったのはこの歯医者の影響が大きい。
時代が進んだことによる医学の向上や
器具の発達も関係しているかもしれないが、
やはり病院や医師によって差はあると思う。
どの歯医者に通うのか、事前にできる限り
口コミの評判で下調べしておくと、
楽に治療を乗り越えることができるだろう。
自分の行動範囲の中に
信頼できる歯医者があるというのは非常に安心だ。
ずっと歯医者嫌いだった私も、今回の通院によって
その気持ちがずいぶん薄らいできた。
「症状が悪化する前に、信頼できる歯医者へ」
単純だが、これに尽きる。